100年前の千丈が原水力発電所をしのぶ

100年前の大正6年の昔の写真が、元村長の蔵から。見つかりました。

当時の村長が大切に保管し、長い間蔵で眠っていました。先人から大江山に水力発電所があって

上宮津からも発電所の建設や運転に携わった人が多くいたと伝え聞いていたので、改めて

調査しました。

亡き先輩の吉岡守氏が宮津のあかりのルーツを調査した記録(あかりの足跡)が残っており、これを参考にして動画を作成しました。

上宮津には大正10年(1921年)に200戸の電灯供給が始まっていますが、

この発電所の電源ではなかったと思われます。

千丈が原発電所の作られた電気は、主として加悦の織物の機業電化の需要に応えるものでした。

発電所は、大江町仏生寺に建設され、昭和26年(1951年)頃廃止されています。

建設中に地下から鉱脈が見つかり、河守鉱山がが誕生し半世紀にわたって操業しています。

                               上宮津地域会議顧問 細見節夫

宮津街道と普甲峠

上宮津村史より

京極高広と上宮津 

 

1622年ごろ当時の上宮津村がどういうように人家の聚落単位があったか。

京極氏高広が宮津城を築き、城下街を整備していよいよ領内158村に領主としての藩政を布くに当り、わが上宮津村に対してはいかような態度であったか、今日より知り得ることは極めて少なく不確であるが、まず明かなことは彼の交通路に対する大変革である。

即ち過去少なくとも700800年の長きにわたって、丹後から丹波へ貫通する山陰の要路として、嶮嶺与佐の大山に続く布甲山の東端を越えた峠道を、高広は布甲山の西端で大江山の東に続く鞍部を越して二瀬川から仏性寺に出る道を新開して藩の公路とした。

そして城下からは大手川に沿うて京口橋より南へ、いわゆる松綴手を経て上宮津村を南北に貫通し、金山から福野にいたって旧布甲越えを左にみて南東山麓を関淵谷を右にみて平石へ、そして「かんと岩」を経て大江山東端へ峻坂をよじ登るのである。

高広はこの峠道頂上を中心に行人のため官給の「御茶屋」を設けたことは「丹後守領知目録」中に明かで、元禄二巳年(1689)貝原益軒が天橘立に遊んだときここを通り、その「天橋記」中の普甲山の項に

 与佐の海の南也。大山という名所也。帝都(京都)より山の南の麓内宮まで24里、夫より嶺まで2里、此間に二瀬川あり。左の方に干丈ヶ嶽鬼ヶ窟あり、是をも大江山というに式部か詠に、大江山いく野とつけたるは老の坂の事也。域に宮津より2里の碑あり。其東に普甲寺の旧跡あり、是普賢の道場にして、開山は棄世上人と云う。今辻堂のようなり。普賢堂あり、剃棘生いて路も断え尋ねる人もまれなり。凡山闇に3箇所茶屋あり,京極安智(高広)旅客の為に置所也。麓の左に宮津より1里の碑有是まで山路嶮岨也。

と記していることからも、この峠の険しさと、官給茶屋のあったことは証される。それに高広がここを公路として以来この峠頂土を「千歳嶺」と称しているが、これは「普甲は不孝」に通ずるのでかく呼ばせたといい、金山の福野に鎮座する「富久能神社」もまた「布甲神杜」であったのを、やはりこの音が「不孝」に通ずるというので改称させたとは古来多くの文書記録にいうところであるが、しかしこの「富久能神社」が果して「布甲神社」であったかどうか、これを証する何ものもない。

 きらに高広はわが上習諄村の検地買租の村格を「上格」とし、この標準をもりて上中下田畠の貢租算出を行ったもので、慶長7年の京極氏入国直後の高11893斗は実にこの標準によるものであり、村民はこの不当な村格によって後世永く苦まされたのである。